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長きに渡り、写真のポートレートは肖像画という先達の道をいくらか感傷的にたどってきた。そこに生じるパトロンとアーティストとの妥協的な関係を映してきたのである。肖像写真家はモデルが好む神話をたどるという甘く極端な手段に走りがちなことは、ジュリア・マーガレット・キャメロン、エドワード・スタイケン、アニ―・リーボヴィッツといった写真家たちの作品が不本意ながら立証している。同様に、写真への異議申し立ては、被写体の概念を人工的に(かつ否定的に)、そして過度に刺激する方法によって、仮想の客観性を強要する以上の広がりをもつことはまずなかった。ダイアン・アーバス、リチャード・アヴェドン、そして写真ジャーナリストたちが示してきたところである。どちらの方法も、明解なジェスチャーや特異なイメージが本質を捉え、神秘的な真実を明らかにするという誤った考えに依存している。実のところ、写真が一貫して見せてきたものは、その実践者たちの意に反して正反対のもの、すなわち人間の経験がもつ永遠なるあいまいさであり、そのとらえどころのない本質が明確な理解を否定することで生じる、溢れんばかりの言外の意味なのだ。本物の肖像は、連続性を超越した単発的なドキュメントとしての役割を果たす試みよりも、その連続性を反映するものである。

 

ゲルハルト・リヒターは、素人が撮った家族のスナップ写真は、自意識なく情報を直接的に記録したものとして、上手に構成された芸術写真よりも信頼できる描写方法であると述べている。彼の公式では、人間の経験を理解しようとする試みとしてはどちらも失敗に終わる宿命的なフラストレーションを抱えているが、スナップ写真は少なくとも、ばかげた壮大な錯覚に汚されてはいない。それは、彼が言うところの「純粋な写真」なのである。無頓着な手段の体現としての一枚のスナップ写真の方が、意味の確立を目指す有意義だが虚しい試みよりもずっと深遠なものだ、という議論は、おそらく少々皮肉なことかもしれない。だが、そうしたイメージの寿命、その要約、潜在意識下で進行しながらばらばらに繰り返される探求の結果が、プロパガンダすれすれのところで危うげに揺らぐいかなるイメージよりも、もっと永続性がある複合された「ポートレート」を構成しているという考え方には、大いなる独自性がある。単にヴォリュームの問題ではない。ナン・ゴールディンは唯我論的な世界を膨大にストックしているが、その作品が何点集まっても、個々人の逸話の重みに耐え得る最低のレヴェルにすら達することはない。予見可能な常套句になってしまうのだ。代わりに日常を崇高なものとして表現することは、斜めから遠まわしに見るアプローチかもしれない。情報が間接的で常に制限されている方が、我々は人生をより現実的に把握するし、それゆえそうした試みそのものが、限りある可能性と人生の知識を反映する描写となり得るのだ。新しい、存続可能な肖像は「決定的瞬間」という到達点や抽出物の役割を果たすものとなるよりは、再考の触媒としての役割を果たす。そして不合理で都合の良い、明らかに偽りの結末よりは、出発点としての役割を果たすものとなるだろう。

 

ウォルフガング・ティルマンスの作品はこのような新しいポートレートの、自由な一例である。たとえフォーカスや解像度が甘いというありがちな批判があるとしても、それがまた喪失感と実存の希薄さをもたらし、彼のポートレートを拍子抜けするほど脆く見せているのだ。その脆さは予期されたものではなく、そこには説得力のある親密さがあり、また決して説教じみた表現に陥らないのだ。ティルマンスのポートレートは一枚ですべてを物語り完結するものではない。ポートレートになり得ているのでもない。むしろ、多くの要素から成り、不完全に形作られた事例が際限なく増大してゆくような、記憶と同様のプロセスによって、それぞれが固まりとなっていくのだ。統合された視線は、常に不完全で周縁的で、我々の知識を継続的に再編成している。それはちょうどダイナミックかつ不規則に降り積もる雪が、その下に埋もれた風景がどうなっているかを見る我々の観察力を描き出すのと似ている。ティルマンスの無秩序でくだけたスタイルが、完成された威厳のある様式の写真を見慣れた目を混乱させるものであることは疑いようがない。そのスタイルを「リアル」と呼ぶ現代的な寛大さにひたるのは致し方ないが、作品は誠実であり、数え上げればきりがない欠点を心地よくかわしていく。その作品は仮定を与えることもなく、ある意味で極めて稀なことだが、伝達ということを志していない。気も狂わんばかりの様々な、何千枚もの写真から成るティルマンスの作品の総体は、逆説的に我々の知識や予想を拡散するひとつの赤裸々なドキュメントとなる。それは歴史的な肖像画の要求に全く矛盾するものであるからこそ、まぎれもなく写真的であるのだ。

 

 

ギル・ブランク(以下GB):ポートレートを撮る基本的な動機とは何なのか、聞かせてもらえるかな。驚くほどヴァラエティに富んだ主題を追い求めるなかで、ポートレートは他とまったく性質が異なるものなのだろうか?

 

ヴォルフガング・ティルマンス(以下WT):僕がポートレートをはっきりと意識して撮り始めたのは1990年から91年の頃だった。自分の同時代人に対する感情と、一人の人物についてしばしば感じるものと、両方を伝えるようなものにしたかったんだ。ある人物の全体像をとらえて、その複雑さを伝える。あるひとつの解釈じゃなくてね。その人物の多層的なキャラクターとそこに表れる矛盾を導き出したかった。服やスタイル、態度、どんなふうに生活しているか。アイデンティティの分裂したリアリティ、そこに惹かれるんだ。僕自身、駆け出しの頃、80年代後半のメディアにうまくはまって自分を表現できたとは感じていなかったんだよ。たぶん『i-D』のようないくつかの雑誌ではできていたんだろうけど、ほかはすべて奇妙なジェスチャーをしたりクレイジーな振る舞いをしたり、笑ったりする人たちを写し出したものばかりだった。彼らはそんなふうにしていることをいつも弁解して、彼らの雰囲気や何を表現しているのかを単一的に解釈させるものばかり。自分が人を見る時と変わらない視線で人物を撮る、そんな僕なりの写真を撮れるようになるまでしばらく時間がかかったよ。そうなったのは1991年頃のこと。絵画的なしかけを全部はぎとらなきゃいけない、被写体が、自分たちが誰なのか言い訳したり、写真がその判断を正統化する必要がないように、そうしなきゃいけないと気づいたんだ。そうすることで必要以上に策略を講じていると感じさせない。僕はポートレートでアーティスティックなものすべてから免れた。趣向を凝らした照明、どう見ても「スペシャルな」テクニック、そして被写体と僕たちを引き離すあらゆるスタイル、普通はそういったものは被写体とか写真を高尚なものにすると考えられているけれどね。人工光を使ってないように見える間接光の当て方も見つけたし。いつも誤解されるのは、様式がないために恐るべき「スナップ写真の美学」として片付けられてしまうことなんだ。僕の写真を即時的だと感じる人たちが、その言葉を当てはめたがるんだ。でも、コンポジションがない、そこに込められた深い考えもない、という意味だとしたら、それはまったく当てはまらないんだよ。

 

GB:しかしそれは、ずいぶん表面的な解釈のようでもあるけれど、軽蔑的な表現だとも言えないんじゃないかな。明らかに、「スナップ写真」というレッテルは、作品の美学的あるいは様式的な価値を批評する時に安易に使われている。でも僕は、深い考えがないということが必ずしも悪いことだとは言いきれないと思うんだ。リヒターの「純粋絵画」という観念と直接的に結びつくんだけれど、直接的で自然発生的な絵画的経験は、すべての高圧的な芸術効果に苦しむことにはならない、ということ。

 

WT: 写真について熟慮しなければならないという状況から解放されるんだ。僕は世界を心でつかむために写真を撮る。目の前にあるものについて考え過ぎないようにする。写真は世界を視覚的に取り込むための、信じられないほど効果的で経済的な手段なんだ。何かを直感できれば、それは僕にとって写真に翻訳するとても良い言語となる。僕はスナップ写真についての肯定的な評価についてはだいたいにおいて賛成するけど、だからといって、スナップ写真なんてどれも同じだというありがちな結論付けには反対だね。

 

GB: そういう一言で片付いてしまう明らかな分かりやすさと手軽さとは逆に、君の手法には直観に反した深い思考と、それを意義深い人生の追求に効果的に変換していくことが不可欠だ。写真家にとって最も馴染み深い身元証明のパターンを放棄することになるよね。多くの写真家にとっては、繊細なテクニック、演出された瞬間、典型的なパーソナリティが滲み出るような型どおりのポートレートのクリシェに甘んじているほうが楽だろう。それはまず、慣れ親しんだもの全てをなしにして、熟慮の跡を窺わせる明白なサインをほとんど見せない何かを創り出さなければならない。この点において、君の作品の多くは予期していなかった、あるいはどう見てもさして重要じゃないと思われる要素を統合してスレスレの瞬間のようなあたりを中心に展開しているよね。そのことはあまりにも理想的な写真らしい主題を撮ることを特に避けている、君のプロセスの意識的な部分をなしているんじゃないかな。《シカ》(Deer Hirsch)や《無題(ゴメラ島)》(Untitled (La Gomera))のように、願望が現れたようなイコン的な作品もいくつかあるけれど、そうした単一のイメージを与えるような何かに、抗っているんじゃない?

 

WT: それは、写真的な状況の中で起こる人間同士の交流に対してオープンで無防備でいると、自然とできてくるものなんだ。僕がポートレートと折り合いをつけていく方法だよ。結果をコントロールしたり、ある興味深いイメージを当てはめようとする欲望は、同時に、実はそれを完璧にコントロールできていないと認めているようなものだ。突き詰めていえば、僕は被写体と同じくらい弱いか強いか、そんな存在にならなきゃいけない。先入観を持ってその状況に入ってしまったら、人間的な経験の可能性を制限してしまうことになるだろう。そういう状況の成果というのは不可知のもので、だからこそ身に付けにくいものだ。人は自分のやっていることが良い結果に結びつくと分かっていたいよね。僕は、自分自身を毎回その状況に投げ出すという信義というか強さを身に付けることができたんだと思う。どんな結果になるか知らずにいるリスクを犯し、また同時に重要な作品を作るというリスクを負っている。もう撮り続けて15年になるけれど、それが雑誌のポートレートの好きなところなんだ。人と人との相互作用の原点に、まだ何も知らないポイントに引き戻してくれるからね。僕はプリントに耐え得る質の写真を作れるけれど、美術作品を作るよう強いられているわけじゃない。そしてモデルやその行動自体を超えたものに対して、何の責任も持たないっていうことが好きなんだ。だから僕は個人的な団体やコレクターからの注文を受けてポートレートを撮ることは絶対にしないんだ。

 

GB: 個人的に重要な経験を転換することは、まったくもって意味がないと。

 

WT: 成果というものは本質的にもろく傷つきやすい。本当にパワフルな成果だけが生き残れる。無益な確信みたいなものしかないんだよ。

 

GB: ポートレートを撮る写真家にとって根本的な衝動の一つは、とりわけ君の作品において顕著だけれども、経験にアプローチして、僕たちが人生で経験する物事の意味と、僕たちと共に生きる人々を理解しようとすることだ。写真は、その表現がきわめて正確であるがために、常に盲目的な希望を抱いている。写真によって何かしらの証拠や知識に痕跡を得ることができるとか、ものごとはかくして起こり、かくして存在し、それを私は知り得ている、とかね。僕たちは希望を抱いて生きているけれど、それはばかげた希望だ。なぜならその希望を指向したり写真の中で表現しようとしたりした途端、自動的にその状況を支配しようとし始めて君自身の先入観を超えるあらゆるものを締め出してしまうことになる。だから君にとって、無防備なポジションを維持することは必要不可欠なんだ。

 

WT: そうだね。もちろん、友達を撮る時はもっと自然にそうしているよ。最終的には、僕にとって価値のある写真のほとんどは、親しい人たちを撮ったものなんだ。

 

GB: それで、テートの回顧展で君の手法のダイアグラムかフローチャートのように機能するスケッチを考えた時に、「People」というカテゴリーを一番トップに挙げたんだね。そのスケッチはとても混乱させられるもので、僕は故意にそうしたのだろうと想像しているんだ。なぜなら君はものごとを大きなカテゴリーの中に分類しているけれど、ごくごく細かい注釈や、相互に行き来できる回路や関連性を示したりすることでカテゴリーを曖昧にしていて、実際にはそこに分類というものはなくなっているんだ。すべては交錯し、混合しあっている。

 

WT: でも分類はできるよ、たとえば「clowds/strangers」と「friends sittings」は分けられる。それからまた、「nightlife」までつなげられるんだけれど、それはすぐには知り得ない友達の友達が大きなファミリーになるようなものなんだ。チャートはすべて、チャート自体の不合理さを百も承知の上で作られている。展覧会カタログ『if one thing matters, everything matters』は僕が写真を撮り始めた頃にさかのぼって現在に至るまで、2000枚以上の図版を収めた百科辞典的なカタログだけれど、僕の世界をマッピングする試みに潜んでいる大胆さ、何か決して描写したり定義づけたりできないものについての本なんだ。こんなに困難で実におもしろいやり方をするのは、僕が自分の人生をどう経験しているかということでもある。経験とか視野を厳格に制限するなんてあり得ない。非常に厳密なパターンを作って作品を作る他のアーティストのことも尊敬するよ。でも、そういう厳密さや連続性が僕たちの文化にある真面目さや、思慮深さや深遠さと結びついていることに注目することがおもしろいんだ。僕がもっとチャレンジングに感じるのは、一日一日生きている中での経験を構成するさまざまなフィールドをすべて調和させることなんだ。

 

GB: そう、その点が君の作品を受け入れることを難しくさせているんじゃないかな。長い間、僕にとってそこがいつも苛立ちの原因だった。写真的な形式について僕たちが持っている前提をすべて放棄することを要求するんだからね。写真家の最大の動機は完璧な意味を、際立ったヴィジョンを分離させることなんだ。君は断固として、写真家たちが常に挑戦してきた経験との調和と同じ種類のことを求めているけれど、写真が特別なオブジェだというステイタスを捨て去ることでそうしているのであって、そのことが、写真を高尚で貴重な、約束されたものだと決めてかかっている人たちにとって当然、邪魔になるわけさ。

 

WT: じゃあ彼らの言葉で話をしよう。なぜなら正直に言って、僕だって洗練や精度の高さを求めてはいるんだ。でもその好まれる言語を捨て去っているというだけ。たとえば写真のフレームみたいに、即物的に価値付けをするようなシニフィアンをね。何よりもまず、僕はフレームなしの写真をすごく美しいオブジェだと感じるんだ。薄い紙の一葉という純粋さにね。それと一つのイメージあるいはオブジェが他のものより重要だ、という言い方にも抵抗がある。それはそれ自体で決着をつけて欲しい。だけどそれは、僕が非凡で偉大な写真というものを信じないということではないんだ。いくつかの違う方法で機能するイメージもあるし、もっと雄弁なあるいは控えめなのもある。でもクオリティという観点から、僕はポテンシャルを見出せないもの、そのままの姿では本当に良いものになり得ないものは使わない。作品の全体像はいつも、一枚ずつの写真よりも僕が考えている多くのことを表しやすいけれど、一枚の写真は僕にとって今ここでは、主題の完成したバージョンとして機能しているんだ。

 

GB: なんだって?本気でそう思うのかい?

 

WT: そうだよ!そのうち同じ被写体を違うアングルで撮るようになったら、感じ方が変わるかもしれないけどね。90年代初頭テクノ期のエクスタシーとナイトライフの経験を例として挙げよう。92年以降、ナイトクラブでは僕はほとんど写真を撮らなくなった。ナイトクラブでのショットというのは僕にとって、つまりエクスタシーを感じるものだった。僕はそれが欲しいと望み、それを手にいれた。僕が感じて考えたことをそのまま写すことができて、僕は満足した。同じことをもっとやりたいという欲望は僕にはないんだ。同じことが、静物のイメージにも当てはまる。これはジャンルとして13年間もかけて繰り返しやっているけれど、僕はいつも何かしら今の僕にとっての状況が何かを、可能な限りベストな方法で予知するようにしている。だからバリエーションを20も撮っておく必要はないんだ。

 

GB: それじゃあ、どうやって、君は写真を撮る全体像を決定付けているんだい?もし、ある一時期の個人史の要約として写真を撮るのだとしたら、いったいどうやって、人生の中で意味のある出来事に優先順位をつけるんだろう。

 

WT: 「定量化」という言葉が大好きなんだ。ある一枚の写真を自分が何回使うかを観測する。その写真がどのくらい頻繁に展示されるかとか、どの写真がポストカードに使われたり、写真集に掲載されたりするかを見極めるんだ。自分の実人生において何が重要か、僕は分かる。過去を振り返って、何を重要と感じたかが分かる。とはいっても、おそらく今ここでそんなことに真っ向から直面することはできないし、そんなことをする必要もないと思うけど。

 

GB: 一見すると君の作品は場当たり的で、無作為に撮られているように見えるだろう。もっと時間をかけて注意して見れば、関係性や偶然性が明らかになってきて、君が一枚の写真をそこに入れることによって、その一枚が他の写真を「活性化している」ことに気づく。写真それ自体が自発的に、独自の意味の体系を作り出していくために、それはどの程度計画されコントロールされていて、またどの程度開かれたまま残されているのかな?

 

WT: 僕は確かに、写真自体に任せるところが大きい。どの写真も知っているし、それぞれについて考えるところがある。それが『if one thing matters, everything matters』をやったもう一つの理由だよ。だけど写真を再評価するプロセスを漫然と続けているわけではないんだ。自分にとって何か意味のある写真全部をまとめたかった。とはいえ最終的には写真は自由なままで、展示の中でその写真がどう読まれなければいけないかなんてことは、僕は決して言わない。写真集の中に連続してまとめられた写真にしても、そこに物語があるわけじゃないんだ。僕自身がなぜ、その写真をそこにいれるのか知っていたとしてもね。

 

GB: 君のインスタレーションでは、すべてが雑多な混成状態に組みこまれているよね。ジャンルも、サイズも、壁の配置も、プリントのフォーマットに至るまで。でもその写真集では初めて、すべてのイメージが同じように扱われている。君はすべての写真を等しく同様に扱って、執拗に連綿と次から次へと登場させている。

 

WT: サイズはごく数種類だけ、という厳格なシステムがあるんだよ、意図して雑多な感じを基調においているけどね。確かに、すべてのものを包含してはいない。たとえ作品の中にたくさんの被写体があったとしても、被写体でないものも同時にたくさんあるんだ。それをフローチャートにして見せようとしたのさ。僕が見ているものには何か特有なものがあるんだ、すべて何でも見ているわけじゃない。写真によって世界のすべてのものをコントロールしようとしているわけでもないし、僕のシステムからものの見方や経験の仕方を得ようとするわけでもない。僕がしようとしているのは、もっと、人生を受け入れ、ものごとの多様性を受け入れることなんだ。それはみんなが非常に難しいと思うことなんだけれど。人は答えがないことに耐えられないと思って、単純な解決やコンセプトや、単純なアイディアを得ようと躍起になる。ものごとをそれ自身であるがままにしておくことは、支配するのをあきらめることで、ものごとを受け入れようと試みることなんだ。そういう経験の中に喜びを見出しながら、さらに単純な解答なんかないんだという事実を証言すること。僕の作品はオプティミスティックだと思うよ。たぶん実存主義者が同調してくれそうな、自由の実現という困難な道ではあるけれどね。

 

GB: では率直に、根本的な質問をさせてもらうよ。君は写真、とりわけポートレートにどのような信条を持っているのだろうか?僕たちの理解、あるいは個人的な経験へのアクセスを手助けする手段として?そこには希望か救いがあるのか、もしくはそのどちらかを必要とするのだろうか?

 

WT: 僕は、自分を世界の一員にしてくれる、僕と他人をつなげるもの、シェアできるものとしての写真、という考え方が好きなんだ。誰かが僕の写真を見て「ああ、前にこんな感じ、あった。ジーンズが椅子の背にかけてあったんだよ、この写真と同じジーンズじゃないけどね。窓辺にオレンジを置いたこともあったし。」という感じに気づいてくれた時、僕はその人と触れ合うことができる。それは「自分は一人じゃない」という感覚なんだ。こんなふうにものごとをシェアしようとする推進力が、その背後にはある。だから人々の中に関係性を見つけたいと思う。僕は、すべての思考やアイディアは何かしら個人的な経験をなぞることによって一般化されるものだと信じている。

 

GB: でも、君は本当に正直に、そうしたアプローチが達成されると信じているの?それとも実のところ、常に動き続けたい、知りたい、見極めたいという止むことのない欲望が、それ自体を破滅に導くとは言えないだろうか。僕たちには死という避けられない結末があるからこそ、その欲望はそれ自体の不可能性を暗示していると思うのだけれど?

 

WT: そうだね、すべては不可能なんだ!僕の好きなエヴァ・ヘッセもこう言っている、「人生は終わる、アートも終わる、でも大したことではない」!

 

GB&WT: (笑)

 

WT: つまり、もちろん、自分の人生とアートにでき得る限り大きな愛を注がなくちゃいけない、ということ。何も重要じゃないという事実にも関わらず、まさにそうだからこそ、大切にしないといけないんだ。僕の作品のコアに飽くなき欲望があるとは思わない。むしろあるのは静けさ、「今、ここ」を穏やかに見つめることについてだと感じるよ。

 

ここで話していることは、特にポートレートという問題に関して、リアルな、それも最大の論点だよね。つまり、なぜ他人の写真を撮るのか、ということ。人物以外の被写体を撮るのと同じことではないんだ。ある人に他の人を紹介するよね、なぜそんなことをする?ある手本となる人を見せようというのか、理想的な美を、あるいは力を見せようとしているのか?なぜ、誰かが自分の知らない誰かを気に留めるのか?なぜ人物の写真を本や雑誌、展覧会で見せて回ることが僕にとって必要なのか?それは単に生きているだけで、この止まることのない標準的なプロセスの部分に組み込まれてしまうという、僕たちが直面するどこにでもある恐怖の一部ではないのかな?

 

GB: つまりそれが作品の中心となる主張というわけだね?古典的なポートレートの感傷的でヒロイックな趣向を当てにするわけではあるまいし、だから君は被写体を代理戦争へと駆り立てる。ポートレートのイメージが、君が言うところの「決着をつける」ための戦いに。何とかイメージ自体が美と凡庸さの高まりのうちに同一化されるようにね。

 

WT: 僕はどんな種類のメディアでも、たとえば展覧会でも、それを利用するために自分の力を行使する場合、大いに責任を感じるよ。いつもすごく強く感じてきたんだけど、僕のあらゆる行動には特権とか権力が伴っている。なぜなら僕がそう語ってきた張本人だからね。でも同時に、僕や僕の世界観が適切に代弁されたことがないといつも感じていたから、僕の観点は聞いてもらう価値があるものだとも考えてきた。もちろん状況は変わるよ。もはや10年前とはまったく異なるイメージの世界に、僕たちは今、生きているんだ。

 

GB: 本物らしいこととか、誠実にまっとうした人生だと分かることに対して、巨大な、そして多分に胡散臭い価値が見出されているよね。とりわけ僕たちが相互に形作る表象というものの中においてもそれはある。君はこういう危険な、偽善の衝動にたいしては、作品の中でどう対応しているの?

 

WT: まず、僕はそれを公の場で糾弾することはしない。なぜなら僕たちみんながその論争に参加しているんだ。本物らしさと妥協なしの関係を持つことは恐らく不可能だ。何かを表現したら、それは必ず折り合いをつけてでっち上げられた状況になってしまう。ただ純粋さというのは、本物への欲求なんだ。つまり、全く理に適っていないけれど、純粋さというのは、実際この瞬間についての本物らしさ、この瞬間についてオーセンティックであることなんだ。個人的には、何かポスト・オーセンティックという感じがしている。僕にとって本物に見えることは何でも本物なんだ。

 

GB: あまのじゃくだね。

 

WT: まあ、遅く生まれてきたおかげかな!アイディアなんてだいたい使い古されたものだよ。分類も使い切ってしまっている。僕が対話してみようと思った時には、イメージはすでにずけずけと公式化されてしまっていて、もう何かそこに付け加える必要はないと感じた。僕は流派みたいなものに所属する必要もない。本物というレッテルには落とし穴がある。僕はたちまちそれを糾弾して、それは本当じゃない、作品の中のものは注意深く構成されていると言いたくなってしまうからね。でもそれもまた本当のことじゃない。僕は状況に対してきわめて素早く反応するし、写真は直観的なレベルで伝わるべきものだと思っている。技巧にとらわれてはいけないんだ。本物の経験によってつき動かされるようにしなければいけない。

 

もっとも基本的なレベルのこととして、僕は毎日、紙を使って仕事をしている。紙の上に色を形作って染み込ませるんだけれど、それらの物体の表面に表われていることは真実ではない。早くにそのことが分かって、それが僕のすべての作品の始まりになったんだ。一枚の紙の意味をどのように確立するのか。なぜこの紙が金銭価値を生むのか。一枚の紙に命を吹き込むのは僕の脳であり、僕たちの人間性なんだよ。重要なのは、どうやって紙の上にものごとを形作るか、つまりそれが何か人生や経験を表現するようにもっていくことだと思う。人は写真には実体がない、それ自体がオブジェとして成立するのではなく、なにか他の価値に導いてくれる導管に過ぎない、と考えているけれど。

 

GB: つまりそれが、暗室で制作される君の抽象作品の背景にある考えだね。レンズ越しのイメージを超えて、印画紙を単純に手で感光させることによって、写真の再現的な価値を回避するための作品だよね。

 

WT: そう。僕は、すべての写真は何かしら具象的に見える抽象的なフォルムによって呈示されたリアリティだ、という人々の思いこみに挑戦しようとしているんだよ。人は必ず、ありとあらゆる言葉と隠喩を駆使してそれを言い表そうとする。これは肌のように、髪のようにあるいはワイヤーのように、また日焼けのように見える、というけれど、イメージは印画紙に焼きつけられているのだから、そういう連想をしているにすぎない。それがキャンヴァスの上だったら、同じことは言わないだろう。

 

GB: でも写真のフォーマリスティックな性質に挑戦するというのは良く確立されたコンセプトだと思うよ。もっと手近なところで作品と直接関係しているのは、はたして抽象の作品はそのほかの作品の全体性を意識的に破壊するものか、ということだ。なぜなら全体性としてのほかのイメージの独自性や美学的な価値は、それが極めて本質的に写真的なことにある。抽象の作品は、ものごとを仮定されたゼロ地点、すなわち写真的な知識を放棄するところに連れ戻すという錯乱したユートピア的な試みのように感じられるんだ。

 

WT: だけど抽象の作品について、僕は常に十分言い訳をできるよ、だって純粋に写真的な作品だから。僕のほかの写真に引けをとらず真実だし、写真というものが負っている使命をまさに果たしているんだ。

 

GB: 一体どういうこと?わかるように説明してもらえるかな。

 

WT: 光を集めて色に変化させる。僕は紙の上で感光と光の操作をして、なるべき状態に正確になるようにする。その過程には手を加えない。

 

GB: でもそれは馬鹿げてるよ。それじゃまるで言語の唯一のポイントは音を出すことだ、と言っているようなものだ。言語も写真も、人間的なシステムの上でこそ価値があり、だからこそ人間的な意味をもたらすんだ。カンガルーは写真を撮らない、人間だけだ。そして僕が口を開けて音を出すだけじゃ、僕が何かを言ったということにはならないからだ。僕たちは、写真が永遠に経験の範囲内にあって、出来事を正確に物語るものだと思う罠に陥っている。写真がその出来事のすべてを僕らに完璧に説明してくれるのは、ほとんど不可能に近い。もし君の抽象作品が明確な意味を示すことができずあいまいなものでしかなかったら、そしてもしそれが実は意味を否定するものとして作られているとしたら、それは本当に写真と呼べるのだろうか?おそらくそのプロセスのおかげで辛うじて写真なのであって、君が言うようにオブジェとして人間にとって価値があるからとは全く思えないな。

 

WT: でも、写真として楽しいんだ。

 

GB: えっ?!

 

WT: 作るのがすごく楽しいんだ。魅惑的な現象を、僕は大いに楽しんでいるんだよ。

 

GB: でもそれだけじゃないだろう。

 

WT: いや、そうなんだよ!

 

GB: そんな空虚なものとして片付けられはしないよ。

 

WT: いや、意味がどのようにして紙の上に定着するかというリサーチの一部なんだよ。中には大変な仕事もあるけれど、それ自体を楽しんで遊べる部分もあるんだ。古臭く聞こえないといいけど、僕は遊びというのはとても重要で、とてもシリアスなものだと思う。思考と存在が題材になる時に何が起こるかを調査しているんだ。なぜなら写真はひとりでに存在するようになるものじゃないからね。

 

GB: 《君を忘れたくない》(I don’t want to get over you)は鍵となる例だろうね。一つのイメージの中に、君の作品にあまねく見られる相互混合のようなものが見られるから。光の軌跡を抽象化することで、基調となる、まさしく表象と言えるイメージを打ち破るものだ。そこには二元性がある。欲望に結びついた経験との関係と、そしてその条件から脱却しようという試みだ。そしてまたレンズやカメラによって自動的に形を与えられたイメージの置き換えがあり、作者である君自身の手の軌跡が残されている。

 

WT: 人が作ったものに固有のクオリティがあるよね。

 

GB: 人が作ったというだけじゃない、ヴォルフガング・メイドだよ。君の作品は、普遍性に憧れながら、君自身の日常に深く結びついている。他のすべてのイメージと同様に、それは疑いようもなく同時代性があり、同時にその作り手を表出している。

 

WT: 他の方法では達成できないからね。僕はこの時代に生きていることを決して恐れない。時代を超越したいと願うあまり、同時代性を避けようとするのは問題だとよく思うよ。そういう人はプロセスの中でどうにか事足りるようにしてしまう。すべての偉大なアートは、その時代と強くリンクしている。パラドックスとなるのは、どうやって特異性を示しながら普遍性を獲得するかということ。際限がなく、きわめて扱いの難しい問題だと思う。明確な解答を得られないまま、それ以上考えず、しかしまた諦めもしないという矛盾を抱えているしね。単純な答えが見つかるかのようにみえる安易な道を選んじゃダメなんだ。

 

(ギル・ブランク/写真家、『Influence Magazine』編集者)

 

Credits

 

和訳:児島やよい

所収:「ヴォルフガング・ティルマンス Freischwimmer」展覧会図録(絶版)

企画:飯田志保子(東京オペラシティアートギャラリー キュレーター)

発行:財団法人東京オペラシティ文化財団 2004年

提供:東京オペラシティアートギャラリー(http://www.operacity.jp/ag/exh55.html

初出:Influence Magazine, Issue #2, Autumn 2004 / 発行:AR Media

© Gil Blank 2004

 

Japanese translation: Yayoi Kojima

Exhibition catalogue: Wolfgang Tillmans Freischwimmer, in occasion of the solo exhibition at Tokyo Opera City Art Gallery (16th October to 26th December, 2004) [out of print]

Curated by: Shihoko Iida (Curator, Tokyo Opera City Art Gallery)

Published by: Tokyo Opera City Cultural Foundation 2004

Courtesy: Tokyo Opera City Art Gallery (http://www.operacity.jp/en/ag/exh55.html)

First printed in: Influence Magazine, Issue #2, Autumn 2004 / Published by: AR Media

© Gil Blank 2004

ヴォルフガング・ティルマンスのポートレート

インタヴュー:ギル・ブランク
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